廃坑に成って60年ぶりに七ツ尾口から引っ張り出す約5トンの笏谷石
七ツ尾口の近くで採掘され継体天皇皇像としてソリに乗せられ足羽山山頂へ皆で運んだのが140年前!
どちらも皆んなの郷(さと)の発展を願っての力合わせです!
笏谷石採掘場について
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三本の矢伝説
笏谷石とは、言い伝えでは、5世紀後半、男大迹王(おほどのおおきみ)後の継体大王が越の國の治水事業の際に立ち寄った足羽山の麓で見つけた良石です。男大迹王は、人々の生計の為に採掘を奨励しました。笏谷の名は、発見した地名石谷から変じたものと言われています。男大迹王は、笏谷石を見つける際に三本の矢を弾ち、矢尻で水を噴き出させる程、岩を割ったという伝説が残っています。矢を弾った場所は、笏谷神社として今も残っており、七ツ尾口は伝説の地に隣接する笏谷石採掘場です。継体天皇は父亡き後、母の古里越前で3才から天皇即位の58才(507年)まで暮らしていました。笏谷石七ツ尾口採掘場は、継体天皇が民の生計の為に採掘を奨励したゆかりの地です。
笏谷ブルー
笏谷石(しゃくだにいし)は、約1600万年前の火山活動で降り積もった灰が固まってできた火山性凝灰岩です。福井県福井市の足羽山でのみ採掘され、中でも北西側山麓の石谷地区の石質が優れていたことから、変じて笏谷石という名称がついたとされています。また、水に濡らすと青色が更に深みをますことから別名「越前青石」とも呼ばれており、薄青色で雲の無いきめが細かいものが特上品とされています。
採掘場の歴史
七ツ尾口は、終戦間際の昭和19年から舞鶴海軍工廠に接収され、極秘に飛行機工場が建設されていました。七ツ尾口での採掘事業は、昭和38年までおこなわれていましたが、坑道が奥深くなった為に人力での採掘は限界となり、近隣の長谷川口に採掘を集約しました。長谷川口は、自然石を使える職人不足、タイルなどの安価な代替品に依る販売不振等によって、1999年9月から採掘を停止しております。平成元年からは、採掘場の一部を、日本酒の長期熟成の為の貯蔵庫として、ワインのセラーとして利用しています。
笏谷石の活用
笏谷石は曾ては食器などの生活用品、住宅、土木、工芸、墓などあらゆる場面で使われていました。北前船の時代以前から日本海の航路を利用して日本各地に運ばれ小谷城、安土城、聚楽第、兼六園や江差のにしん御殿、角館、函館、酒田等の歴史的建造物によく使われ歴史遺産として残っています。福井では、岡太神社、福井城の石垣をはじめ、丸岡城、永平寺、平泉寺、朝倉氏遺跡、芝原用水などに利用され、福井市街の用水路は今も現役です。
カウントダウンコンサート
2016年12月31日 23:00~
越前石株式会社法人化100周年記念事業として、七ツ尾口入り口から、タイムトンネルを通って160メーターの場所にある太陽の広場に、2010年のワルシャワで開催されたショパンコンクールで実際に使われたFAZIOLIを運び入れベルカントカウントダウンコンサートを開催しました。太陽の広場の笏谷石は、音を吸収し跳ね返すことがなく、全く雑音のない神秘の世界でのコンサートは大成功を納める事ができました。
根尾谷の淡墨桜
根尾の桜には、継体大王伝説があると言われています。足羽山七ツ尾は福井駅からも近く福井の人々にとって身近な場所です。そこで、人々に愛され大切に扱って貰えるよう、また、心を休める憩いの場になるようにとの想いを込め、七ツ尾口前広場に根尾村の桜を7本移植しました。
浅井三姉妹が登った山
越の國の足羽山は、継体大王、秀吉と勝家・お市の方・浅井三姉妹、坂本龍馬等、歴史転換時の舞台裏になりました。
採掘場360度AR(準備中)
笏谷石採掘場内VR動画(※準備中)